あらためて考えた、演奏の原動力について。

先日、取手松陽高校音楽科の卒業演奏会が無事に開催された。昨年は無観客での動画撮影のみだった。今年は観客数を制限して無事に開催されることを祈る毎日だったが、二日前になって突然ホールから貸出中止の通告があった。開催はほぼ絶望的と思われる中、音楽科専任教員の方々のご尽力と小美玉市四季文化館ホールの協力により、生徒達にとって“卒業式より大切”(らしい)な卒演が実現したのだった。これまで散々振り回され続けた学生生活にあって、一見元気に見える生徒達の心の内は決して穏やかなものではなかったはず。今回は特に、それぞれの演奏から“声なき声”が強く聴こえてきたように感じたのは、私だけではなかったはずだ。

今年の卒業生は、修学旅行をはじめ学校行事がことごとく中止になった。そんな中でも、真摯に音楽に向き合いながら、言葉にできない様々な感情は、作曲家、作品への共感に繋がったり、音楽に昇華されることを体感したのではないだろうかと、私はずっと聴きながら考えていた。ひたむきさや演奏ができる喜びが伝わってきて、うまく弾こうとか、余計な力が入ったような演奏はほとんど無かったのが印象的だった。生徒達の姿から、音楽を求める意味、そして演奏の原動力は人間のどこから生まれるのかという原点について考えさせられ、私にとって大切な時間となった。

一日も早く、のびのびとした学生生活が戻ってくることを祈るばかりである。

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